一字庵菊舎は加賀の千代女と並び称される女流俳人です。 長府藩士田上由永の長女として宝歴3年(1753)10月14日山 口県豊浦郡田耕村に生まれました。16歳で同村の村田利之助 に嫁しましたが、24歳にして夫に死別し長府印内に移っていた 実家に帰りました。若い菊舎は残る半生を本当の人生に生きた いという願いを持って俳諧の道に精進しあらゆる世間的絆を断 ち切ることに心を労し29歳のとき萩の清光寺で剃髪しました。 |
秋風に浮世の塵を払ひけり |
爾来一笠一杖の旅をつづけ諸国の文人墨客と交わり美濃の 国に至り朝暮園傘狂を訪れて入門し一字庵の号を貰いました。 それ以来九州・北陸・奥羽・江戸と行脚をつづけ、その間に 「手折菊」「残菊集」等の作品集を上梓しました。寛政2年春、 宇治の黄檗宗本山万福寺を訪れた時の句 |
山門を出れば日本ぞ茶摘うた |
は代表作で万福寺の句碑にも刻まれています。菊舎は文政9年 (1826)8月23日、74歳で長府で生涯を終え、真宗帰依の尼僧で あったので法名を一字庵菊舎釈妙意大姉とおくられて徳応寺に葬 られました。 |
無量寿の宝の山や錦時 |
は辞世の句で墓に刻まれています。 |
◎本願寺に詣で七昼夜の御讃経に逢うとき |
報恩をおもへばかろし雪の笠 |
今はただ参るばかりか報恩講 |
◎徳応寺報恩講の句 |
明日しらぬ身ながらあへり報恩講 |
菊舎墓碑(右は彰徳碑) |
文政5年(1819)故郷長府に落ち着いた時に 建てた句碑。旅中に父母から頂いた手紙を碑の 下に納めたので文塚と呼ばれています。前面に 雲となる花の父母なり春の雨 の句を刻み裏には唐人(費晴湖)の詩文を記しています。 詩文はこちら→城下町長府のページ |
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