一四七〇(文明二)年、「加州石川郡大道村」(現在 の石川県)に、永元によってお寺が草創された。続いて 永真、永了の三代の間、百有余年にわたる。時に世相は 騒然として応仁の乱は全国を戦火に包んだ。一四七七年、 乱は終結したが京都は焦土と化した。農民や一向宗徒に よる一揆が起こり、下克上が叫ばれる中、草創されたお 寺も兵災の難にあい、この地を去って播磨、美作の国に 堂宇(お寺)を営んだが、安住の地であったかどうかは 定かではない。 その後、織田信長の家臣内藤正吉が本願寺の教如上人 に帰依し、出家して法名了恵と改め、一五七一(元亀二) 年に毛利氏に伴い長府の地にお寺を再建した。第四世 である了恵をこの寺の開基と定めて「郷領法」へ由緒書 を差し出した。本山には永元を開基として既に由緒書を 差し出していたが、前三代が他国住居であったのでこの 時に改めた。したがって、徳応寺は第一世住職を了恵と してその法灯は絶える事なく現二十二世住職文昭に錐承 されている。 実に開基了恵より四百二十有余年の時が流れている。 第三世了念により一六一二(慶長一七)年に、申請して いた寺号「徳応寺」の寺職免許の御印書を毛利秀元公か ら頂戴する。また、一七七五(安永四)年に第十一世住 職了廣によって本堂が再建され、その後山門が一八四五 年(弘化二)に再建され現代に至っている。 以上、喜びも悲しみも門徒と共に生きてきた「徳応寺」 の歴史を簡略に紹介しました。 |
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