慶長十三年(一六〇八)、ほとんどが葦原の阿武川(あぶがわ)(山口県萩市)下流の三角州の中に毛利三十六万石のお城が築かれ、城下町がつくられました。それ以来、文久三年(一八六三)に藩庁が山口に移転するまでの二百六十年間、防長二州の藩庁として、萩は繁栄していくのです。 萩城築城のすこし前、毛利輝元(もうりてるもと)の正室清光院(せいこういん)殿が浄土真宗に帰依し、慶長九年(一六〇四)に念仏ひろまれと防州山口に一宇の堂舎を建立します。 萩城が完成したその年、その堂舎を萩に移築、それが、のちの清光寺です。清光寺と正式に寺号をもらうのは、清光院殿が亡くなられた寛永八年(一六三一)からのことです。 阿武川の下流、松本川(まつもとがわ)と橋本川(はしもとがわ)にはさまれた三角州の城下町、そこに貞享(じょうきょう)四年(一六八七)一月二十三日、三代藩主吉就(よしなり)が、城下の地図をそえて、萩城外堀から唐樋(からひ)まで、治水対策としての新堀川(しんほりがわ)の開削を幕府に願い出ます。現在の橋本川から松本川に抜けるおよそ三キロです。 その新堀川の中ほどを少し北に上ったところ、三角州の中央のあたり、今も西田町(にしだちょう)と呼ばれるその中に清光寺が建っていました。 現在、同じ西田町にある清光寺は当時のものでなく、寺の沿革史には、 「毛利藩より寺碌(じろく)二百七十五石を与えられ、これを維持してきたが、明治十三年事情あり土地建物の一切を萩附近の真宗門に托して現在地に移り今日に及ぶ。移転した後の土地建物は本派本願寺に移管され、本願寺萩別院と なりてその使命を果して来たが昭和五十五年(一九八〇)三月二十四日夕刻、「不詳(ふしょう)の失火により炎上、その遺構の一切が烏有(うゆう)に帰した」 と記されています。 現在、萩別院跡は山口別院萩分院(はぎぶんいん)となり境内地には、園児百五十人をかかえる萩幼稚園の大きな園舎が建っています。その園舎と道をはさんで向い側に、現在の清光寺が建っています。慶安(けいあん)年間(一六四八〜一六五二)の″萩城下町地図″を見ると善行寺の建っているところです。 天明元年(一七八一)、菊車(のち菊舎)が訪ねた時の清光寺も創建当時のものではありませんでした。寛永十一年(一六三四)十月と、万治(まんじ)二年(一六五九)三月の二度にわたって清光寺は焼失、菊車の訪ねた清光寺は二度目の火事のあと再建された本堂であったと思われます。 菊車が訪ねたその時の住職は、第五世の聞心院老師(もんしんいんろうし)でした。 菊車が、なぜ清光寺の聞心院老師を訪ねることになったのか、その背景には、菊車の想いをあと押しするお父さんの姿が見えかくれするのです。娘の行末をたのむ父のその想いが、なにはともあれ、まず清光寺を訪ねさせるそのことにつながっていったのではないでしょうか。 夫を亡くし、そのさびしさの中で、俳諧の道にのめりこむようにつき進んでいく娘の姿を見るにつけ、そして長い旅に出ようとするその覚悟を知った時、 「それならば聞心院老師のもとで出家剃髪を……」と言葉を足したのではないかと想像するのです。 菊舎は素直に、その父の言葉にしたがったのでしょう。長府を出発してからの菊車の足は、一途に萩へと向ったのです。 『手折菊』(たおりぎく)には、 爰(ここ)に清光寺聞心院老師を頼みまつり御 弟子となり、後世の事共いとねんごろ に教を受け、後剃髪するとて 秋風に浮世の塵を払けり と記しました。 剃髪といっても、肩から背に近いところを切る”甘剃”か、肩のあたりで切る”深剃”のどちらかではなかったかといわれています。 法名を釋妙意(しゃくみょうい)といただき、み仏の弟子となったそのよろこびの反面、菊車の心の中には″浮世の塵″と詠んでふり払ったはずの、家族への想い、過去へのとらわれ、悲しさ、さびしさ、それらをどうすることもできない自分のこころ、姿を見つめざるをえなかったのではないでしょうか。 ″後世の事共″と書いた、生死(しょうじ)出(い)ずべき道を、聞心院老師はねんごろにおはなしくださったのでしょう。菊車はそれを聞きながら、払ったつもりの塵が、それを煩悩と呼ぶならば、その煩悩そのままの自分の生きざまだと、うなずかざるを得なかったのではないでしょうか。だからこそ、お念仏をよろこび、お念仏に生かされてある自分であったとの想いが、旅をつづける足どりの一歩一歩につながったのではないかと思うのです。 俳諧、それは菊舎にとって、歩くこと、ただ歩くこと、それが原点ではなかったかとこのあとの足跡(あしあと)をたどりながら、しきりに思うのです。旅こそが日常であり、住むところであり、いのち見つめる場所ではなかったか、と。 |
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| 日本海につきでた標高143メートルの指月山。菊車さん(のち菊舎)が通から船で萩に到着した頃は、山の麓に萩城があり、また城下町もつくられ繁栄していた。明治7年(1874)に萩城は解体され、現在は石垣と城が残る。 | ||